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防災に行動経済学の視点を - 読売新聞

 地球温暖化が進み、極端な気象現象が増えている。昨年10月に幅広い地域に甚大な被害をもたらした台風19号「令和元年東日本台風」の記憶は新しい。災害について正しく知り、多角的に備え、具体的に行動することが大切だ。私たちは、災害の恐ろしさをついつい忘れがちだし、知っていても行動になかなか移せない。私たちの特性を理解して、そっと後押しする行動経済学の視点が役に立つかもしれない。

 過去最大クラスの大型で強い勢力を持った台風19号が昨年10月12日、日本列島を直撃した。伊豆半島に上陸、関東地方を通過して、13日未明に東北地方の東の海上に抜けた。関東甲信越、静岡、東北を中心に記録的な大雨となり、10日からの総雨量は、神奈川県箱根町で1000ミリに達し、17の観測地点で500ミリを超えた。13都県で最大級の警戒を呼びかける特別警報が出された。

 同月25日からの大雨の被害を合わせて、99人が死亡、3人が行方不明、381人が重軽傷を負った。住宅の被害も甚大で、3280棟が全壊、2万9638棟が半壊、3万5067棟が一部破損した。床上浸水も7837棟、床下浸水も2万3092棟に上ったとされる。

 この台風19号被害の報道で、気になったのは、住民たちの「予想外」「大丈夫だと思った」との声だった。

 長野県の千曲川流域で洪水被害にあった男性は、インタビューに「山に囲まれているから、台風の被害は受けないと思った」と答えていた。「大きな堤防があるから大丈夫」と安心していた住民もいた。

 でも、この台風19号で浸水被害を受けた場所は、災害の被害を予測して地図化したハザードマップの想定範囲とほぼ一致する。

 昨年秋まで筆者が勤務していた山梨県では、地元の人たちが「富士山が台風から守ってくれる」と話しているのを何度も聞いた。

 そのたびに、「そんなことはないだろう」と思った。

 歴史を振り返ると、甲府盆地は繰り返し大きな水害に襲われてきた。武田信玄が暴れ川の氾濫防止のために築いた「信玄堤」も有名だ。

 それでも、2年半の赴任中、確かに晴れの日が多かった。東京が雨なのに青空のことも多く、幸い大きな災害に見舞われることはなかった。

 いつしか、「富士山が守ってくれている」と思っている自分もいた。

 どうして、私たちは正しく判断したり、行動したりできないことがあるのだろうか?

 私たちは、得られた情報を最大限に活用して、合理的に判断していると思いがちだが、残念ながらそうではない。第一、いつもそんなことをしていたら疲れてしまって大変だ。

 普段は、半ば反射的に、大体のところで判断している。必ずしも、正解とは限らないが、エネルギーを節約でき、大きな問題にはならない。

 ただ、災害など命を左右しかねないような判断となると話は別だ。

 私たちの判断のクセ(偏向、バイアス)を理解して、正しい行動につなげる必要がある。そんな時に、役に立つのが行動経済学だ。従来の経済学が、合理的で常に損得で判断する個人を想定しているのに対し、行動経済学は、判断にクセがあり、間違えることもあるけれど、他人の幸せも喜べるという私たちの弱みも強みも含めて考える。

 私たちが安全、快適な状況にいると、それがいつまでも続くと過信してしまうのも、行動経済学で「正常性バイアス」と呼ばれるクセの一つだ。

 防災でまず心掛けたいことは、正常性バイアスを排して、正しい情報を知ること。さらにそれを行動につなげていくことが大切だ。

 「ここにいてはダメです」

 東京都江戸川区が2019年5月に住民に配った水害ハザードマップは、表紙に書かれた自虐気味な言葉で話題をよんだ。

 江戸川区は、荒川、江戸川の大河川の最下流に位置する。関東地方に降った雨の多くがここに集まる。陸域の7割が、満潮時の水面より低い「ゼロメートル地帯」で、台風や大雨がなくても、周辺の河川の水位は、大半の陸地より高い。

 戦後間もない1947年9月のカスリーン台風、49年8月のキティ台風では大きな被害を受けた。カスリーン台風の時は、利根川からあふれた水が江戸川区まで到達して浸水被害が半月以上続いた。

 近年、大きな水害はないが、地球温暖化の影響で今までに経験したことのない巨大台風や大雨が増えている。

 もし、荒川と江戸川が氾濫して、高潮も発生したとすると、江戸川区を含む江東5区(墨田、江東、足立、葛飾、江戸川)の人口の9割以上の250万人が浸水被害にあうと予想されている。深いところで、水深は10メートル以上になる。浸水は1~2週間、長いところは2週間以上続く。

 江戸川区が水害のハザードマップを作るのは、2008年に次いで2回目だ。想定を200年に1度の雨量から1000年に1度に変更して、台風や大雨だけでなく高潮も考慮するようになった。最大の変更点は、時間的な要素を入れ、長期間浸水して、孤立する危険性があることを明記した点だ。

 国の試算では、ヘリコプターやボートなどを使って救助できるのは、1日2万人が限界とされている。マンションの高層階に住んでいても、電気、水道、ガス、トイレが使えない状況で長期間避難生活を余儀なくされる恐れがある。新しいハザードマップは、巨大な台風や大雨が予測される時は、区内にとどまらず、区外のより安全な場所に逃げる「広域避難」を打ち出した。「ここにいてはダメです」は、そのメッセージだ。

 自然災害の中でも台風は、天気予報が進歩してある程度の予測ができるようになった。その分、事前の準備や避難が特に重要になる。

 新しいハザードマップは、台風19号で早速試されることになった。

 台風19号が関東地方に接近していた昨年10月11日午後、東京管区気象台から江戸川区に「荒川流域の3日間の雨量が400ミリを超えるかもしれない」という連絡があった。江東5区では、「400ミリ超」の恐れなどがある時に、共同で広域避難を呼びかけるかどうかを検討することを事前に取り決めていた。

 緊迫する状況下、5区の担当者間で初めて広域避難が検討された。

 広域避難は「600ミリ超」で勧告する決まりになっていたが、足立区からは「広域避難を具体的に検討すべきではないか」という意見も出た。しかし、同日午前にJR東日本が12日からの首都圏での計画運休を発表していた。「暴風雨の中、避難の足を奪われかねない」。混乱を避けるため勧告は見送られた。足立区は独自に「遠方への避難が可能な方は早めに自主的に避難もお願いします」とホームページで呼びかけた。

 その後、気象台からの情報は、「500ミリ超」に上がり、再び緊迫した。最終的に基準の600ミリを超えなかったため、広域避難の勧告は出されなかった。

 一方、江戸川区は、区の半分以上に上る新中川から西の21万4000世帯、43万2000人に避難勧告を初めて出した。3万5000人の住民が避難したが、避難先の小学校では1枚の毛布を2~3人で使う状況も生まれ、混乱が生じた。

 区は、「毛布は元々、全員に配る想定ではない。必要な食料や毛布は持参するようにお願いしている」と釈明する。しかし、避難の手段は車ではなく、徒歩を呼びかけており、大きな荷物を持ち込むことは難しいのが現実だ。

 防災危機管理課の本多吉成統括課長は「台風19号で様々な課題が浮き彫りになったが、住民の水害に対する意識は確実に高まった。ただ、行動に移すという点ではまだまだで、3万5000人が実際に避難したが、合格点とは言えない」と話す。

 より多くの人に水害の危険性について知ってもらおうと、江戸川区は、地区ごとの説明会のほか、一部の小学校でハザードマップを活用した防災の授業を始めた。2020年度から全小学校に拡大する。子どもを通じて、普段なかなか防災情報が届かない働き盛りの世代の意識を高める狙いがある。実際、小学生のいる家庭は、防災訓練の参加率が上がるという調査もある。

 荒川の堤防から100メートルほどの距離にある平井東小学校には、キティ台風時に避難所となった体育館で出産した女性がいたという「伝説」も残る。周辺は水害の危険地域だ。隣接する民家には、水害避難用のボートが今も用意されている。台風19号時には、180人の住民が学校に避難した。こんな土地柄でも、毎年7月に実施する防災訓練は地震を想定したもので、水害の訓練は行われていない。

 宮本知司校長は「小学生が水害についてきちんと学んでおくと、本番でもきちんと避難ができる。大人も子どもたちの避難を見て、避難することができる」と意義を強調する。

 1月30日の防災の授業では、4年2組の25人がハザードマップを使って、最大水害時の学校付近の浸水の深さや時間、近くの安全な場所を、4人1組の班で調べた。

 ビルの3、4階の高さまで、1~2週間以上浸水するという結果に、児童たちからは「家が3階だから、逃げなくてはいけない」「マンションでも、食料不足になってしまう」などの意見が出た。

 台風19号の時も1日前にハザードマップを見て、安全な避難場所や、避難できなかったら何をするかなどを家族で話し合ったという湯浅凜心(りこ)さん(10)は「やはり、逃げないと大変。逃げられない時もあるので、今できることをしっかり準備したい。家族にも伝えたい」と話していた。

 「一人の犠牲者も出さないこと」を目標に、住民が主体となって防災の取り組みを進めるのは、甲府盆地の西部に位置する山梨県中央市のリバーサイドタウン。向こう三軒両隣を基本とした防災計画を2015年から地域防災が専門の山梨大学の鈴木猛康教授の支援を受けながら作成している。

 リバーサイドタウンは、暴れ川として知られ、過去に何度も氾濫を起こした釜無川の左岸に位置する。かつては、霞堤と釜無川に挟まれた遊水池で、1907年の釜無川の氾濫後は、沼地になっていた。1976年から埋め立てと宅地造成が始まった。現在、1400世帯、4000人が居住している。約半分の区域が家屋が倒壊して流される危険のある倒壊家屋等氾濫想定区域になっている。

 計画作りのきっかけになったのは、2015年の「平成27年9月関東・東北豪雨」での鬼怒川の氾濫だった。「釜無川が氾濫したらどうなるのか」と心配になった。その後も、18年7月の「西日本豪雨」の岡山県倉敷市真備町の洪水被害、昨年の台風19号と、全国で大規模な水害が相次いだ。

 第2自治会長の細川益一郎さんは「他人ごとじゃない。改めて学んで、この場所は水害に弱いと実感した」と話す。

 しかし、ここでも、住民が主に心配していたのは、水害ではなく、地震だった。埋め立て地だったため、地盤の液状化を恐れていた。

 江戸川区でも見られたこうした状況は、天気予報や治水技術の発達で、近年再び目立つようになるまで大きな水害が減少した一方、阪神大震災以降、各地で大地震が頻発して、ニュースになることも多かったことが影響している。

 行動経済学が専門の大阪大学の大竹文雄教授は、「私たちは、覚えていること、記憶に残っていることを、ついつい重要と思ってしまう。重要なことは覚えているが、逆に、覚えていることが全て重要とは限らない。頭に浮かんできやすい情報を優先して判断する『利用可能ヒューリスティック(経験則)』の一つで、テレビなどを見て記憶に残った地震のリスクを過大に評価してしまう」と説明する。

 山梨大の鈴木教授は「気づき」を目的に、まず全世帯を対象にアンケート調査を実施して、リバーサイドタウンと鬼怒川の被災地には共通点が多く、水害のリスクが高いことを改めて認識する機会を作った。アンケート結果は、回覧板の形で住民に周知、共有された。

 「一人の犠牲も出さない」ために重視したのは、向こう三軒両隣の精神だ。自力で逃げられないお年寄りなどの担当を住民同士であらかじめ決めておいて、真っ先に安全な場所に避難させるとともに、自分たちが避難する時には、近所の住民たちに互いに声をかけて、避難を促すことを申し合わせた。

 私たちは、自分の損得だけでなく、できれば他人の役に立ちたいと思っている。お年寄りを助けるという目的ができることで、自分だけが避難する時に比べ、行動が起こしやすくなる。また、お年寄りが先に避難するのを見たり、住民同士で互いに声を掛け合ったりすることで、住民が避難する確率が高まる。まさに行動経済学にのっとった手法といえる。

 鬼怒川の氾濫でも、住民が避難した動機は「家族や友人に促された」が最も多かった。逆に、屋内にとどまった理由は「浸水しないだろうと思った」「二階建てだから」などが多かったが、「高齢者等がいて移動が困難だった」「近所の人が避難しなかった」という理由もあった。

 さらに、鈴木教授が重視するのが、タイムライン作りだ。

 タイムラインとは災害を想定して、どういう状況下で、いつ、誰が、何をするのかを、時系列で整理した行動計画だ。

 夏休みの宿題やダイエットで、私たちはついつい「明日でもいいや」と行動を先延ばししてしまう。行動経済学では、現在の楽しみを優先して、計画を先延ばしするクセを「現在バイアス」と呼ぶ。

 こういう場合に有効とされるのが、将来の行動にあらかじめ制約をかける「コミットメント」の活用で、細かな行動計画を定めたり、周囲に目標を宣言したりするのもその一つだ。

 タイムラインには、状況に合わせて多くの判断が求められる避難行動を、一つずつ分解して、明確化することで、行動を円滑にする効果もある。

 リバーサイドタウンのタイムラインは、避難準備情報を受信してから避難を完了するまで、必要な行動を10段階に分けて、それぞれの段階で「誰に声をかけるか」「何を持ち出すか」「誰に連絡するか」などを記入して完成させる。自治会は、毎年、A4判の用紙を各戸に配り、住民がそれぞれ自分たちの状況に合わせて記入して、電話や冷蔵庫の近くなど目立つところに貼る。半数以上の家庭で、タイムラインを作成している。

 防災で課題になるのは、計画を行政が作っても住民が知らなかったり、避難を呼びかけても住民が避難しなかったりすることだが、鈴木教授は「住民が主体となってボトムアップで防災計画を作ることで、住民の意識が高まり、こうした課題は生じない。さらに、市、県、国のそれぞれが何をすべきか役割分担が明確になる」と意義を強調する。

 中央市には、江戸川区と同様に、水害被害時に避難できる場所がほとんどないため、リバーサイドタウンでは、大規模な水害が予想される場合、市外への広域避難を考えている。

 国、県、市による広域避難の協議も計画されているが、なかなか具体化しない。そんな中、鈴木教授の協力で、リバーサイドタウンの自治会は、広域避難の候補地を独自に決めた。今夏の総合防災訓練では、実際に避難を行う予定だ。また、自治会の旅行や特産品の購入など、避難先と住民レベルでの交流を一足先に進めている。

 では、どのような情報があった場合に、行動すればよいのか?

 災害心理学が専門の京都大学の矢守克也教授は、情報の取捨選択の重要性を強調する。自分なりの基準で、避難のタイミングをあらかじめ決めておく「避難スイッチ」を提唱している。

 自然災害の激甚化に合わせるように、情報がどんどん増えて、細分化されている。気象庁は1999年の広島県の豪雨災害をきっかけに「土砂災害警戒情報」、2011年の紀伊水害を踏まえて大雨などについて「特別警報」を新設した。このほか、自治体が出す避難情報もある。これらを整理して理解しやすくするため、昨年5月には危険度や避難の目安を5段階で表す「警戒レベル」が導入された。しかし、違いはまだまだ十分理解されず、情報が出されても逆に安全だと思って逃げないような状況が生まれている。

 情報があればあるほど合理的な判断ができるわけではなく、正しい選択や判断ができなくなってしまうのも、行動経済学が教えてくれる私たちの特性だ。

 台風19号でも、「大雨特別警報」の解除が混乱をもたらした可能性が指摘されている。

 北陸新幹線の車両基地が浸水するなど大規模な水害が発生した長野市では、昨年10月12日午後3時30分に大雨特別警報が発表された。翌13日午前0時55分頃、千曲川の水が一部堤防を越えたが、雨が弱まったため、午前3時20分に大雨特別警報は解除された。千曲川の堤防が決壊して、大量の水が住宅地に流れ込んだのは、午前3時~同5時30分と見られ、特別警報解除後の可能性が指摘されている。

 こうした事態が生じるのは、大雨特別警報が洪水を考慮したものではなく、雨が弱まれば解除されることになっているためだ。

 洪水に関しては、別途「氾濫危険情報」が出されていたが、知名度の高い大雨特別警報が解除されたことで、安全だと思ってしまった住民も多かったと考えられる。

 「天災は忘れたころにやってくる」は、物理学者の寺田寅彦の言葉とされる。その基になった随筆「天災と国防」には、「文明が進むに従って人間は次第に自然を征服しようとする野心を生じた。そうして、重力に逆らい、風圧水力に抗するような色々の造営物を作った。そうして天晴れ自然の暴威を封じ込めたつもりになっていると、どうかした拍子に檻を破った猛獣の大群のように、自然が暴れ出して高楼を倒潰せしめ堤防を崩壊させて」という文章もある。

 同じような皮肉は、ダムや堤防などの治水技術ばかりでなく、情報についても言えるのかもしれない。「ダムがあるから大丈夫」「高い堤防があるから安心」と同じように、「まだ特別情報が出ていないから大丈夫」などと思ってはいないだろうか。

 富士山山頂の気象レーダーは、約5000人もの死者・行方不明者を出した1959年の伊勢湾台風を教訓に作られた。当時は、あれほど巨大な台風の進路も十分に予測できず、被害を広げた。

 矢守教授は「昔は、情報がなくて多くの死者が出た。今は、情報がありすぎ、情報に頼りすぎて死者が出る。自分の命を守るため、避難スイッチになりそうな本当に役立つ情報を一つ、二つ選び取ることが大切」と強調する。

 豪雨の被害を左右するのは、単純な雨量ではなく、過去と比べてどれだけ多いかだ。当たり前のようだが、その土地、川で過去にないような事態が生じた時に、大きな被害が出る。

 矢守教授は「危うく洪水を免れた、被害がぎりぎりでなかったというケースは多い。情報はなかなか表に出てこないが、こうした潜在的な事例こそ防災に役立つ。情報の共有が必要だ」と語る。

 私たちは、自分の平熱を知っていて、体の不調に早めに気づくことができる。同じように、地域の河川などの普段の状況や、災害時の変化を理解して、生活感覚に結びつけておくことがいざという時に役立つ。

 例えば、京都府福知山市のある地区では、由良川近くのオートバイ店がオートバイを高台に避難させることが、周囲の住民の避難スイッチになっているという。川の水位をいつも見ているオートバイ店の判断を、住民が上手に活用している形だ。

 防災では、犠牲者が出ると批判にさらされる。そのため、行政は訓練でも、100点、120点を求めがちだ。ただ、100点、120点の条件で訓練しても、本番で同じような状況になる可能性は低い。

 矢守教授は「災害時は、次善の策を考え、助かる可能性を少しでも高めることが重要。何とか60点取ることを目指す、より現実的な防災訓練も必要」と提案する。

 真備町の洪水でも、犠牲になった51人のうち、41人は住宅の1階で見つかった。犠牲者の中には、足が不自由だったり、(つえ)を使ったりしていた人もいた。22人の住宅は2階建で、2階まで逃げられていれば、助かっていたかもしれない。

 災害時には、居間から玄関口に出るだけでも、周囲の誰かが気がついて助かる可能性が高まる。

 防災訓練で長い距離を歩くのは、高齢者や障害者にとって大変な労苦になる。矢守教授は「2階まで逃げたり、玄関口まで出たりする訓練も行い、命を守ることをあきらめないことが重要」と話す。

 広島県は、全国で最も多い4万7329か所の土砂災害危険箇所を抱え、何度も大きな土砂災害に見舞われてきた。

 2014年の「平成26年8月豪雨」による土砂災害で77人の死者、18年の「平成30年7月豪雨」で131人の死者・行方不明者を出した。

 14年の土砂災害を教訓に、県は(1)災害の危険性を「知る」(2)「察知する」(3)判断して適切な「行動をとる」(4)災害、防災について「学ぶ」(5)災害に「備える」―の五つの行動目標を掲げて、「『みんなで減災』県民総ぐるみ運動」を展開している。

 その結果、県民へのアンケート調査で、災害の避難所や避難経路を確認した人の割合は、14年の13.2%から18年は57.2%に大幅にアップ。非常持ち出し品を用意した人も52.8%から67.4%に上がった。しかし、防災教室や防災訓練への参加は35.1%から39.4%と伸びはわずかだった。

 18年の7月豪雨では、県内23市町のうち22市町の計236万757人に避難勧告、避難指示が出たものの、実際に避難した住民は1万7379人だけで、再び多くの犠牲者が出る一因になってしまった。

 そこで、広島県は18年から、大阪大の大竹文雄教授や防災、行動心理学の専門家のチームに依頼して、避難行動につなげるには何が必要か検討している。

 大竹教授は、避難場所は知っていても避難しない人には、三つのタイプがいると分析する。

 一つ目は、避難することが、自宅に残るよりも心身の負担が重いと思うタイプだ。避難先の生活の不便さを過大評価する一方、自宅に残った場合の危険性を過小評価する。こうしたタイプには、「避難所に行けば、食料や毛布が得られます」「自宅に残って被害を受けると、救援活動で周囲に迷惑をかけます」などのメッセージが有効かもしれない。

 二つ目は、避難が面倒くさいと「先延ばし」してしまうタイプだ。こうしたタイプには、コミットメントが有効かもしれない。リバーサイドタウンのタイムラインのように、避難行動をあらかじめ用紙に書いてもらったり、早期避難のタイミングや基準を「避難スイッチ」として設定してもらったりする方法がある。「今」を強調して、先延ばしできなくすることも有効で、「今、避難すれば、食料や水が確保できます」などと呼びかけるのも一つの手だ。

 三つ目は、損失回避のためにあえてリスクをとるタイプだ。避難には移動などのコストが生じるが、残留すると大きな被害を受ける恐れがある一方、逆に全く被害を受けない可能性もある。被害を受けない可能性があれば、それに賭けるというものだ。こうした人には、「身元が確認できるものを身につけてください」と呼びかけて、「今が危険だ」と強調するのが良いかもしれない。

 大竹教授たちは、広島県の実状を知るため、500人に面接調査した。7月豪雨で事前に避難した住民は少数派だったが、その多くは、周囲の人が避難するのを見たり、周囲の人や消防団から呼びかけられたりしたのがきっかけだったとわかった。

 そこで、どのような呼びかけが避難行動につながるか、1万人を対象にした意識調査で検証した。

 従来の「広島県でもこれまでに、山や急な斜面が崩れる土砂崩れなどの災害が発生しています。大雨がもたらす被害について知り、危険が迫った時には、正しく判断して行動できる力をつけ、災害から命を守りましょう」というメッセージと、(1)「これまでの豪雨時に避難勧告で避難した人は、まわりの人が避難していたからという人がほとんどでした。あなたが避難することは人の命を救うことになります」、(2)「((1)と同じ説明の後で)あなたが避難しないと人の命を危険にさらすことになります」などのメッセージを比較した。

 従来型は自分の命を自分で守る自己責任型だが、(1)と(2)は自分の行動が他人の行動にも影響を与えることを認識させ、自分だけではなく他人の命を救うためにも避難することを訴えるものだ。

 その結果、避難場所へ避難すると答えた人は、従来型が23.2%だったのに対して、(1)は35.7%、(2)は39.5%に上昇した。自宅以外の安全な場所への避難を合わせると、(1)は従来型より13.8ポイント、(2)は23ポイントも避難する割合が高くなった。

 効果は予想を上回るものだった。研究予定を途中で打ち切って、実際の避難の呼びかけに使うことにした。

 広島県の湯崎英彦知事は昨年6月7日、本格的な大雨シーズンを前に、「あなたが避難することが、みんなの命を救うことにつながります。日頃から周囲の方々としっかり話をしていただき、地域で声を掛け合って早めに避難ができるよう、準備をお願いいたします」と県民に訴えた。昨年だけで計9回、同様の呼びかけを行い、チラシなども作成した。

 また、報道機関にも、メッセージの活用を促し、長崎県の大雨時の報道などでも呼びかけに使われた。

 呼びかけに、より効果が期待される(2)の「命を危険にさらす」ではなく(1)の「命を救う」を用いたのは、(2)だと少しきつく聞こえ過ぎる危険性があるからだが、(2)をあえて使うケースもある。

 広島県では、自主防災組織の研修で、なかなか逃げない住民への呼びかけで、(2)のメッセージの活用を勧めている。

 一人暮らしのお年寄りの中には、「自分は死んでもいい」とあきらめてしまっている人もいる。そんな人にも、「人の命を危険にさらすことになります」の訴えかけは効果的だ。

 行動経済学的手法を用いて、選択の自由を確保しながら、金銭的なインセンティブを使わずに、行動を良いと思う方向に、ちょっと後押しする仕組みは「ナッジ」と呼ばれる。

 例えば、効果が同じで価格の安い後発薬の使用を増やすため、国は制度を少し工夫した。従来は医師が後発薬に変更可能と判断して署名した場合に使用できる仕組みだったのを、2008年から逆に変更を認めない場合に医師が署名する方式にしたところ、後発薬の使用が飛躍的に増えた。

 ナッジには、選択を特定の方向に誘導して、操作しているという批判もある。そのため、ナッジを活用する時は、透明性が重要で、ウソを使ってはいけない。

 実は、広島県の避難呼びかけのメッセージでも、より効果が期待できるのは「みんな逃げています」だ。私たちは、多数派の行動を正しいと感じて、合わせようとする意識が強い。でも、実際には多くの人が逃げていない状況では、そうしたメッセージはウソになってしまう。そのため、同じような内容を「これまでの豪雨時に避難勧告で避難した人は、まわりの人が避難していたからという人がほとんどでした」という形でメッセージに込めている。

 こうしたメッセージは、どんな地域や人に効果があるのだろうか?

 調査結果はちょっと意外で、地域のつながりの強い場所より、弱い場所で「逃げる」という人の割合が多く増えた。男性と女性では、男性の方により効果があった。

 つながりの強い地域では、もともと、助け合いの意識を持っているため、日頃のつきあいの薄い地域や、共感能力が女性よりも低いとされる男性の方がより効果があったものと考えられる。

 このようにナッジの効果は、地域や、文化、災害の特性で、変わってくる。避難の呼びかけも広島の取り組みが唯一の正解ではない。

 防災は、一瞬の判断がカギを握る。

 自分の判断のクセを理解して正しい行動につなげるとともに、災害や地域、文化に合わせて上手にナッジを設計して、私たちの命を守っていきたい。

●主な参考文献
 大竹文雄「行動経済学の使い方」(岩波書店、2019年)
 矢守克也「天地海人―防災・減災えっせい辞典」(ナカニシヤ出版、2017年)

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May 01, 2020 at 08:00AM
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