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ブラジル移民とデカセギ、国策に翻弄 生まれ続ける苦難 - 朝日新聞

 外国から日本へ働きに来る人たちが増えています。かつては日本が労働力の輸出国だった時代もありました。戦前から戦後にかけてのブラジル移民と、のちに「デカセギ」として来日したその子孫たち。それぞれの時代の国策に翻弄(ほんろう)され、多くの人が苦難を強いられました。外国人労働者がさらに増えていく現代に、海を渡った人々の歴史が問いかけるものを考えます。

「ないないづくし」の生活

 様々な物語が、ここから始まった。神戸港を背に、通称「移住坂」を上った山ぎわに立つ「海外移住と文化の交流センター」。かつては国立移民収容所といった。1928(昭和3)年の開設から戦後にかけて、日本からブラジルなどに渡った約20万の移民は出発までここに滞在し、移住坂を下って船に乗った。

 中からポルトガル語の歌声が聞こえてきた。毎週土曜、ブラジルにルーツを持つ子どもたちの学習支援教室を、NPO法人関西ブラジル人コミュニティが開いている。

拡大する写真・図版国立移民収容所だった建物でポルトガル語を学ぶ、ブラジルにルーツを持つ子どもたち=2020年1月、神戸市中央区の海外移住と文化の交流センター

 NPOの一員、長谷川眞子さん(69)は57年に家族7人でアマゾン川流域のパラー州グァマへ入植した。掘っ立て小屋以外、何もないジャングル。ヤシの木を裂き家を建て、密林を切り開きコショウを育てた。マラリアや感染症も怖いが医者もいない。「ないないづくしの毎日だった」

 91年に帰国した後、自身もブラジル生まれの我が子も苦労した。その経験から、約60年前に旅立った場所で在日ブラジル人支援に携わる。神戸市内の小学校で、外国にルーツを持つ子どもたちに母語による学習や生活面の支援もしている。授業についていけない、クラスメートから無視され、孤立する……。様々な問題を見てきた。「長い目で多様な支援を考えることが大事。学校内で母語支援がない自治体も多く、政府は真剣に子どもたちの将来を考えてほしい」

日本の政治と経済とのあらゆる「手落ち」

 ブラジル移民の歴史は1908(明治41)年、781人を乗せた「笠戸(かさと)丸」の出港から始まる。国内では日露戦争後の不況で失業者があふれる一方、ブラジルは奴隷制度廃止で不足したコーヒー農園での労働力を求めていた。

拡大する写真・図版「らぷらた丸」のデッキに立つ石川達三=1930年、石川旺さん提供

 その後の農村不況もあり、国は渡航費を補助して移民を奨励し、神戸の国立移民収容所も設けた。起死回生の地を求め、家や田畑を捨てて全国の農村からそこへやってきた人々の姿に衝撃を受けたのが、石川達三だ。作家活動で手応えがなく、移民を監督する仕事で30年にブラジルへ渡る。渡航前の収容所でこう感じたと記している。

 「その貧しさ、そのみじめさ。…

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February 24, 2020 at 03:00PM
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