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「笑顔で見送る」 その力になりたい - asahi.com

 「私は父を笑顔で見送りたい」。看取りの場面になることを話すぼくに、一人娘はきっぱりと言った。

 患者さんは八十八歳。高血圧症で大野内科に通院して、二十五年。ここに至るまでに、いろいろな場面があり、その都度に相談があった。

拡大する写真・図版桜咲く頃、四万十は田植えの準備 写真/森 千里

 認知症を発症して十年になる。時々発熱して、総合病院に緊急入院した。そのたびに少しずつ認知症が進行し、弱ってきた。在宅が無理になり、三年前に特別養護老人ホームに入所した。

 その施設には嘱託医がいるのだが、娘は引き続いての診察を希望した。ぼくはもちろん引き受けた。なじみのない介護施設でも、患者さんがまずは第一。サッカーでいうアウェーに乗り込んでゆく気持ちだった。

 二カ月前から眠る時間が長くなり、動きも悪く、食事が難しくなった。「食べられなかったら、普通は胃瘻を造るのですが、どうしますか」と、ぼくが聞いた。「先生が家族だったらどうですか」と、切り返す質問が来た。「ここまでいろいろな場面を乗り切ってきたけれど、今の流れなら胃瘻は造らず自然がいいと思います」と答えた。娘は「うーん」とうなずいたままだった。

 微熱が続き、さらに食事の量が減ってきて、診察に出向いた。娘は入院を望まなかった。「先生、入院したら胃瘻でしょう。あの時の話で、私は決めました。お世話になってきたここで、先生に診てもらって父を見送ろうと思います」。なじみの施設でできることをと、はっきりと意思表示があった。

 採血をしたら、炎症反応があった。持ち直すとしたら抗生物質が効くかどうかだと話した。それから五日間、抗生物質の静脈注射をした。家族、職員の見守る中で、足の小さな血管に針を刺した。針が無事に入ると、職員から歓声に似た声があがった。

 五日間の注射で事態は変わらず、食事は全くできなくなった。「反応がありません。お父さんは生きる力を使い果たしたのかもしれません」と、ぼくは看取りの方向を娘と職員に告げた。

 それからぼくは、毎日介護施設に通った。娘の希望する「笑顔で見送れる」ように、力になりたいと思った。診察をして、娘と職員と話をする繰り返しだった。目の前の患者さんは苦しそうではなかった。

 注射を終わって一週間後の夕方、ゆっくりと呼吸が浅くなり、止まった。臨終を告げたぼくは「よくがんばりましたね。お父さんはしあわせですよ」と、職員の前で娘と握手をした。在宅と同じような、やわらかに見守る最期が施設でもできたことにほっとした。

 後日、診療所に娘があいさつに来てくれた。「前日の夜も私の話にうなずいてくれました。思っていた通り、父を笑顔で見送れました」、そう言って本当ににっこりした。

<アピタル:診療所の窓辺から>

http://www.asahi.com/apital/column/shimanto/(アピタル・小笠原望)

拡大する写真・図版<今月のことば> 弘前大学の三年下の学年の同窓会が高知で開かれ、講演の機会をいただきました。しんしんと降る雪、城の桜、十和田の紅葉、思い出すのは津軽の四季です。懇親会の自己紹介で 皆さんが学生時代を語っていました。なんとかなって、みんな還暦を過ぎ、いいおんちゃんおばちゃんになってきたのです。百点ではないけれど。

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