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限りなく本当の花に近い造花から生み出された造花『カウボーイビバップ』レビュー - IGN Japan

Netflixオリジナル『カウボーイビバップ』(以下、「実写版」)は想像以上にB級なドラマだった。公開から1カ月が経ち、世界的にも評判は芳しくはないようで、つい先日シーズン2の制作がキャンセルされる報道があった

だが僕が思うに、原作を無視したからそうなったのではない。逆だ。おそらく原作アニメを忠実に実写化しようと掘り下げた結果、皮肉なことにB級になったのだ。

原作アニメが「本質を迂回しながら、本質のように見えるフェイク」を徹底していることに、制作側はたぶん気がついている。なので正確にフェイクさも実写化しようとする努力の結果、アメリカのB級映画の表現を採用したように映る。しかし原作アニメは「フェイクでありながら、本質のように見える」ことが大事であり、その機微は失われている。

本作がB級表現を取るのは構わないのだが、B級ならではの強みを生かしきれていない。『イカゲーム』(2021)のように優れたNetflixオリジナルが持つ「文化の主流の位置ではないB級映画やドラマの立ち位置から、オルタナティブな表現をする」魅力に欠けており、ただ安いドラマの印象に留まっている。

かといって原作アニメのすべてを無視した出来でもないだけに、褒めることも、けなすこともしにくい、なんとも言えない思いにさせられる。ただ原作アニメが、本場のアメリカからすれば本質的にB級であると明かされた事実のみがごろりと横たわっている。

 

原作アニメを放映当時に観ていて感じた “本物らしさ”を覚えている自分にとっては、実写版は身もふたもない現実を見せられた気持ちは否めない。

あらためて原作アニメを振り返りながら、日本におけるアニメと、アメリカにおけるB級の意味などを考えながら、本作を評していこうと思う。

原作『カウボーイビバップ』自体が “ビバップ”ではない。限りなく本物に見えるフェイク

まず原作アニメの「本質を迂回しながら、本質のように見えるフェイク」という自分の評がどういうことかを説明する必要があるだろう。

そもそも原作アニメ『カウボーイビバップ』(1998 以下、原作アニメ)は “ビバップ”ではない。タイトルに“ビバップ”とジャズの一形態であるビバップを名乗っているのだが、実際のところアニメ音楽ではその表現形態を避けているのである。

代表的なOP曲「Tank!」こそ限りなく本物に近いフェイクという意味で象徴的だ。OPを聴いたミュージシャン兼音楽批評家である大谷能生氏は、「"ジャズ"が演奏されているにも関わらず、それが"ジャズ"に聴こえなかった」という。

「ジャズなんだけれど。ジャズなんて、嫌い。だーっと長いだけで」原作アニメの音楽を担当した菅野よう子氏は、原作アニメがテーマとしたジャズについてそう語る

実写版『カウボーイビバップ』

ビバップ以降、ジャズはマイルス・デイビスをはじめ先鋭的な表現を目指していったわけだが、正直なところ本質のジャズがすぐに気持ちよく聴ける音楽とは限らない。その複雑なリズムや、時に不協和音に近い響きは、ジャンルに理解のない人を遠ざける。

しかし菅野氏は原作アニメの劇伴を作るに当たって、そんなジャンルの本質的な部分をリジェクトする。周到に聴きやすく仕上げ、表向きはクールな “ジャズみたいな”音楽を生み出したのである。実際、菅野氏は「Tank!」のジャンルをジャズと言っておらず「自分で演奏してて燃える、と思えるブラス・ファンク」だと説明しているのだ。

実写版『カウボーイビバップ』

菅野氏の音楽をはじめ、原作アニメはその他にも「本物に見えるフェイク」を徹底している。ハードボイルドや宇宙SFなどのジャンルを借りながら、いずれも本質を追うことはなく、本質に見える要素をサンプリングやリミックスしながら世界観を形成していく。第1話「アステロイド・ブルース」に見られる西部劇とスペースオペラが混ざり合ったようなムードが代表的だし、スパイクとビシャス絡みのメインストーリーにあたるフィルムノワールのような描写もそうだ。

いわば本当の花に限りなく近づけようとした造花。しかも数多くの花を参照しているがゆえに現実にはどこにもない造花。それが原作アニメの価値であり、ひいては日本のポピュラーカルチャーに顕著なクリエイティブである。

緩い画面とアクションに動揺させられる実写版

実写版『カウボーイビバップ』

問題は、ジャズもハードボイルドも本当の花を知っている国の人々からすれば、真剣に原作を解釈したところ造花にしか見えていなかった事実である。「実写版」の画面を見ればその事実は伝わるだろう。いずれも画面が緩いのである。

たしかに原作を再現するように多様なロケーションが登場する。メキシコ国境線沿いの街みたいな場所や、ネオンサインが明滅するサイバーパンクの都市まで現れる。しかしどれもこれも書き割り以上の印象がない。

原作アニメでは主にニューヨークと香港をモデルに「まるで本物のように見えるくらい」描きこむことで画面の緊張感を持たせていたと思うし、それなりに世界観の広がりを想像させた。しかし「実写版」では、様々な都市が出てくるが、美術の作りこみはどこか軽く世界観の広がりを想像させるに至っていない。

 

第1話ではメキシコの町をモデルにした街並みが描かれるが、メキシコをチープなまがい物にしたようにしか見えない。それが本作の雑多な世界観を形成しているならいいが、特にそんな効果もなく、ただチープなのである。

実写版『カウボーイビバップ』

俳優はどうだろう? スパイク役を演じたジョン・チョーはとても良い印象がある。彼のたたずまいからは、もともとスパイクのモデルが『探偵物語』(1979~1980)の松田優作氏だったことも思い出させる。よい配役だと感じる。原作アニメと実写ドラマという埋めがたい誤差を、興味深く見せてくれているのに違いない。

しかしチョーがあまりにも遅い動きでカンフーをやりだした瞬間、そんな興味深さは消えてしまう。彼だけではなく、全編に渡ってさまざまなアクションのキレが悪く、映像のリズムもさして気持ちよくはない。

現在のMCU作品や「ジョン・ウィック」シリーズなどで目が慣れているならば、「あの原作アニメが実写ではなぜこうなるんだろう?」と思うくらい、見せ場のアクションは安っぽい。日本刀を持った敵が映ると、あざとく和楽器の効果音が流れ、観るものを脱力させもするシーンもある。

原作アニメを実写に翻訳するためにエクスプロイテーション映画の方法に近づけたのではないか

ただ僕は、意図的に画面が緩くチープなアクションの演出をとったのではないか、とも感じている。アメリカの実写において、「本物に近いフェイク」という原作アニメのクリエイティブに近いものと言えば、エクスプロイテーション映画が挙げられるのではないか。

さてエクスプロイテーション映画とはなにか。ざっくりと説明すれば、刺激的な題材を取り扱い、特定の観客層からの動員を目指したB級映画のことだ。直訳すれば “(観客からの)搾取”映画という意味であり、決して高尚なものはない。

実写版『カウボーイビバップ』

そんなエクスプロイテーション映画だが、見方を変えれば映画の主流派から追いやられたアイデンティティの作り手たちが集まる場所でもあった。代表的なのが、エクスプロイテーション映画のひとつ、 “ブラックスプロイテーション”である。

ブラックスプロイテーションとは、黒人の作り手が黒人の観客に向けて作った映画のことだ。主に70年代から80年代にかけて隆盛し、代表的な作品に『黒いジャガー』(1971)などがある。

このジャンルは都市部で麻薬密売から殺し屋、探偵などを演じる黒人の主人公が、腐敗した白人警官や反社会組織と関わる内容が多かったとされる。それはそのまま当時のアメリカでの黒人が追いやられた立場が反映されていた、ともいえるだろう。(余談ながら、「黒いジャガー」シリーズの最新作『シャフト』(2019)もNetflixオリジナルで公開されており、実写版を考える補助線としてもおすすめだ)

僕が「実写版」を観ていて、ますブラックスプロイテーションの文法がいくつかあるように思えた。原作アニメの「本物のように見えるフェイク」という実態をアメリカで実写に翻訳するにおいて、自国で近い構図を持つジャンルを採用したように見える。

たとえばジェット役をアフリカ系アメリカ人であるムスタファ・シャキールが演じている構図にブラックスプロイテーションらしさを感じる。ジェットが中心となるエピソード5「ダーク・サイド・タンゴ」では、原作アニメ16話「ブラック・ドッグ・セレナーデ」を下敷きに、黒人による黒人のベタなフィルム・ノワールが描かれる。マイノリティの立場がマジョリティの生んだジャンルをフェイクらしく演じて見せる。

さらにエクスプロイテーション映画にはブルースプロイテーションと呼ばれる、ブルース・リーのそっくりさんだけを取り扱う無茶苦茶なジャンルまである。そっくりさんなので当然カンフーの動きもひどいものだ。ジョン・チョーの緩い動きにはそんな偽ブルース・リー映画の文法を、「本物のように見えるフェイク」たる原作アニメに当てたように思える。原作アニメでもスパイクはブルース・リーを崇める設定があるというが、身もふたもない実写化ではないか。

原作アニメでミステリアスな相手に見えたビシャスの変更もそうだ。イギリス人のアレックス・ハッセルが演じる彼は、「実写版」では組織で力のある位置に居ながら余力のない白人ギャングとして描かれている。

 

このビシャスの変更は、エクスプロイテーション映画的な印象を強めている。アジア人であるジョン・チョーと、黒人であるムスタファが組み、主流派ではないアイデンティテイが主役級を張り、対照としてビシャスが描かれるからだ。

彼は原作アニメでは断片的にしか登場してこなかったが「実写版」でほぼ全話に登場。スパイクたちと平行して描写されることで、主流派から外れたアイデンティテイの人々が、主流派と対峙するコントラストをわかりやすく描いている。

実写版『カウボーイビバップ』

問題は、原作アニメをエクスプロイテーション映画の手法を使ったり、再解釈したりする手つきがいささか物足りないことである。

Netflixオリジナルでは、「あえて主流派ではないエクスプロイテーション映画的なB級映画・ドラマを作るが、そこでマイノリティに属している人を生かす物語を作る」という方向性があると思う。

たとえば最近で印象深いドラマでは『セックス・エデュケーション』(2019~2021)などがタイトル通りに高校生のセックスをフックにしながら、多くのジェンダー・アイデンティティを持つ登場人物たちを描いていたし、映画『ザ・ハーダー・ゼイ・フォール 報復の荒野』では、制作陣から主演俳優まですべて黒人による西部劇を行い、『ジャンゴ 繋がれざる者』(2012)以上に白人主体の西部劇へのカウンターを描いていた。

対して「劇場版」の主演男性陣の配役や描写にはその方向性が観られなくもないのだが、それ以外の俳優陣がいまひとつおよび腰な印象を受けた。

フェイ・ヴァレンタイン(ダニエラ・ピネラ)
フェイ・ヴァレンタイン(ダニエラ・ピネラ)

たとえばフェイがそうだ。僕は「実写版」の配信前、フェイの衣装を原作アニメから変えたことが批判されたというニュースを読んだ。衣装の変更自体は、むしろ当時の原作アニメに欠けていた男性以外のキャラクターのアイデンティティを、いまどのように書き直すんだろうかという期待があった。

しかし実際のドラマでは、スパイクやジェットほどに興味深いものになっていなかった。ダニエラ・ピネダの配役自体は良いと思うし、同性とセックスしたりするシークエンスを入れるのもいい。しかしドラマ全体を通して、フェイのキャラクターが主流派に対するカウンターみたいな意味合いにまで踏み込み切れてなかったように思える。

またビシャスの側近であるシンとリンの双子も「実写版」ではシンが女性に変更されているのだが、こちらもカウンターとして機能している感じはなく、配役のジェンダーバランスを取る以上のものを見出せなかったのは残念だった。

エクスプロイテーション映画の手法は原作の美点を描きにくい

このように、原作アニメの実態を反映するためにエクスプロイテーション映画的な方法でやっていくこと自体は、日本のアニメやアメリカの実写映画といった国やジャンルの文脈において興味深い。

しかしこの手法を徹底すればするほど、僕が原作アニメでもっとも良いと感じていた描写から離れざるを得ないことが、観ていて切ないところではあった。

実写版『カウボーイビバップ』

ここまでに原作アニメは「本物のように見えるフェイク」だと書いてきたわけだが、けっして悪い意味で書いているわけではない。むしろフェイクだからこそ良いと感じてきた。僕自身はそれがストーリーにも及んでいるところが魅力だと考えている。

スパイクやフェイといった主人公たちは、どうやら重大な過去があるにもかかわらず、偽名で人生を送る。過去をおくびにも出さずに賞金首を追いかけたり、単に宇宙船で食料がなくなった瞬間を生きている。

原作アニメは実質的にメインストーリーが存在しない。その瞬間瞬間の雰囲気が優れているのであって、いい意味で山もオチも意味もないアニメだから良いのだと思う。僕にとってはスパイクとビシャスのエピソードはメインストーリーというより、TVシリーズをまとめるために便宜的に設定された以上のものはない。むしろどこにも本質がないゆえに、根無し草であるスパイクたちの自由さを感じたものだ。

実写版『カウボーイビバップ』

しかし「実写版」ではどこまでも原作アニメがフェイクであることを、実写映像としてあぶりだしていく。そこにはフェイクだからこそ良い、という感覚はない。エクスプロイテーション映画は単なるB級ではなく、黒人やアジア人といった本当のアイデンティティに関わる表現にもなり得る。そこにフェイクはない。

「実写版」のストーリーもそうだ。スパイクもジェットも、フェイも現在に連なる過去や背景が念入りに語られる。嘘の人生を生きる前に、山もオチも意味もある本物の人生が描かれているのである。だがキャラに本物の人生やストーリーを描けば描くほど、残念ながら原作アニメにあった魅力は失われるのだ。

実写版『カウボーイビバップ』

これから『ONE PIECE』などがNetflixオリジナルの実写化が発表されている。これまでのさまざまな実写化は、「原作をほとんど無視するのは制作側の都合だろ」と観客は原作との違いに戸惑い、その出来をある意味で “安心して”罵倒できたと思う。

しかしこれからは、もっと本質的なところで観客を戸惑わせるように思う。日本のサブカルチャーがどこまでも本物のように見えるフェイクという性質を持つ以上、アメリカのスタジオが誠実な実写化を心がけようとするほどに、原作のフェイクさが明らかにされる内容が出てくるのである。「実写版」はそんな日本のアニメや漫画が、海外のスタジオによって実写化される今後を予見する内容である。

もともとがジャズもハードボイルドも「本物のように見えるフェイク」である原作アニメをアメリカのB級映画——エクスプロイテーション映画に近い方向で再解釈し、アジア系や黒人を主演に決め、白人と対峙する構図に仕上げ直したこと自体は興味深い。しかし原作の美点とは真逆のアプローチであるため見ていて戸惑う。かといって原作を完全に破壊したわけでもなく、観る人を褒めることも否定することもできない感覚に陥る。

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